こんにちは、秋山です^^

4月に入りました。
ソメイヨシノが葉桜になり少し寂しい時期、八重桜がソメイヨシノに代わって春を演出をしていますね。

庭工事の現場に向かう車の中で、おろしたてのランドセルや制服を着た学生が目をキラキラとさせえている姿を見て、私の気分もサクラが咲いたかのような春の陽気を帯びつつあります。

最近こんなことがありました。

ある日仕事が一区切りついた日、洋食が出る飲み屋さんにふと足を運んだ時の話です。

[図1] 今年最後の見沼用水のソメイヨシノ
筆者撮影2023/03/30
 
知り合いの方達と話をしていると幕末の歴史の話になりました。

私自身は歴史に詳しくはなく、話を聞いているだけでしたが、
その中で”山縣有朋”(1838~1922)[図2]が幕末の日本にどのような影響を及ぼした人であったかを熱く語られていたのです。

山縣有朋の名前は弊社社長の庭の話の中に登場していたのですが、政治家として活躍された面を知らなかったのでとても興味深く話を聞き入っていました。

そこで弊社社長の勧めもあり、山縣有朋のお庭についてブログを書こうと思います。




〈山縣有朋〉
山口県萩市長州藩出身で、幕末から明治、大正期の陸軍軍人で、政治家です。

21歳の時に吉田松陰の松下塾に入門していました。

内閣総理大臣として3代 9代と二度組織し、初代参謀本部部長、初代内務大臣、枢密院議長などを歴任していた経歴があります。

そして元勲として元老筆頭となり、現役引退後も政界に君臨していました。

一方、数多くの趣味(煎茶、書、漢詩など)を持っていて、和歌に関しては三千首余り残されているそうです。
特に、築庭については邸宅を所有するごとに自ら現場で指揮をしていた1)と言われています。

山縣有朋の庭園で現在残っているのは、京都の別荘の無鄰菴[図3]、古稀庵と椿山荘[図4]などです。

私が参考にさせていただいている論文では「山縣の庭は一言でいえば、自然趣味である」2)と述べられています。

その根拠を山縣有朋に関わった作庭家や庭師の口述が記された文献や、当時の庭の様子などで示していました。

その一つに、雑木の庭の創始者として知られている飯田十基(1890~1977)に師事をしていた小形純一が飯田十基の口述として、

「山縣有朋の庭が他の華族の趣味とは違ってかなり趣が異なり、自然雑木林、竹林に恵まれ、雑木のからまっている枝や幹を取り払い竹林の下を掃除して、自然に生えているように雑木林や竹林を生かして庭をつくった」3)ということが記されています。

飯田十基は、岩本勝五郎に弟子入りしていた時に椿山荘や古稀庵の作庭にたずさわっていました。4)
[図2] 山縣有朋 
引用 椿山荘公式ホームページ https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/
[図3] 無鄰菴庭園 
引用 無鄰菴公式ホームページ https://murin-an.jp/


[図4] 椿山荘庭園 
引用 椿山荘公式ホームページ https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/

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私は椿山荘の庭園を巡ったことがあり、モミジとツバキの林や竹林などの雑木の庭が印象に残っています。

さらに論文を読むことで山縣有朋がどのような考えで椿山荘の庭園を作庭をしたのか、竣工当時の庭園と現在の姿の違いなど、根拠を元に知ることができました。

そして、洋食の飲み屋さんの山縣有朋の話に、”山縣有朋の庭園は~”というような趣味方面から、学際的に話題を繰り広げることができることができたかもしれません。

いずれお客様と教養深いお話で場を楽しませることができるように意識をして、日々精進したいと思います。

安行庭苑 秋山


参考文献
渡辺美保子『山縣有朋の自然観と作庭観』

引用文献
註1)徳富猪一郎(蘇峰『公爵山縣有朋伝 下巻』山縣有朋公記念事業会、
  1933年 1106頁~1107頁

註2)渡辺 美保子『山縣有朋の自然観と作庭観』47頁
註3)小形純一「飯田十基雑木の庭の創始者」『ランドスケープ研究61
  (1)』1頁

註4)同註3)1頁