安行とは...

埼玉県 川口市安行(植木特産地の形成過程)

 埼玉県川口市安行は、江戸時代からすでに植木に対する産地化が進み、戦前におけるわが国最大の特産地であった。現在は急激な都市化によって、その生産基盤の相対的優位性は低下し、造園業者化、流通業者化の方向に進んでるとはいえ、まだその高い生産技術と流通部門の掌握をとおして産地の優位性を維持している。
 安行の植木生産は、明暦3年(1657年)江戸の大火に「花屋」と呼ばれていた吉田権之丞が花木類を売りに出したところから始まったといわれ、幕末には植木生産者十余戸、明治初期には数十戸に達していた。安行はこのように植木生産に対して古い歴史をもっている。その生産化を可能した要因は・・・・

  • 江戸の植木需要に対応した事
  • 交通地位が良好だった事
  • 自然的条件が植木の生産に適していた事
  • 生産技術があった事

と、言われている。

①江戸の植木需要に対応

 明暦の大火は、江戸始まって以来2番目(1番目は寛永18年(1641年))の大火であるが、この時幕府は復興都市計画を行い、両国橋をかけ本所、深川方面の開拓をすると同時に、大名はそれまでの上および下屋敷に対し上、中、下の三屋敷をもつことになり、植木の需要は武家屋敷の庭園需要と焼け跡の緑化用に需要された。
 安行の植木は、このような時期に生産が個別的に開始されている。しかし、植木の生産者は幕末で十余戸、明治初期が数十戸だったということから、江戸のその後の発展からみて、産地の発展は緩慢だったといえる。これは江戸の植木の需要構造が庭園を媒介にした階層的需要であり、都市的需要も私的な非作庭需要であったことにもよるが、実は江戸の植木供給の中心は当時の江戸の郊外であった巣鴨、駒込、日暮里、田端であり、安行は江戸の植木屋に対する後方基地的地位にあったからである。しかし、それはともかくとして、安行は江戸という最大の都市と結びついて産地化が進んだということである。

②交通地位が良好だった

 安行が植木の産地となった第2の要因は、交通地位に恵まれていたことである。安行から赤羽まで10キロ日本橋まで24キロである。当時の陸の輸送機関は明暦の大火後に発明された大八車が唯一であり、馬車の利用は慶応2年(1866年)になってからである。従って、封建時代の輸送機関はもっぱら河川利用であった。安行は南に荒川、東北に綾瀬川を控えた極めて水上輸送に便利な地位を占めていた。とくに植木は重嵩(じゅうすう)性商品であるため、交通地位の良し悪しが、時代をさかのぼるほど産地形成に大きく影響を与えたのである。
 安行が交通地位が良好でだったとはいえ、江戸近郊の植木産地からみれば、その相対的地位は当然まだ低かった。とくに日本庭園に需要される大型の完成木を、安行から輸送することは不可能であった。このような完成木の供給は、当然巣鴨や駒込の植木産地からの供給であった。前述したように、安行からの樹木供給の始まりが花木であったということは、安行が当時から苗木や養成木の産地だったことを物語るものである。

資料:安行慈林 松本家所有

③自然的条件が植木の生産に適していた

 安行の産地化の第3の要因は、自然的条件が植木の産地に適していたことである。とくに技術の低い段階における作目の立地は、自然的条件にきわめて大きく左右される。植木の生産が苗木から出発する場合は、とくに自然的条件が植木の生産に適していることが重要である。それに産地の自然条件は、単に特定樹種の適地ではなく、多種類の植木の生産に適していることが要求される。
 安行は、かかる植木産地の自然的条件を具備していたといえる。安行の地勢は全般に丘陵が起伏し、台地、傾斜地、低湿地が交差しているので、乾燥、湿地性、日照、日陰をそれぞれ好む樹木などが適地に栽培することができる。また、安行の土質は洪積層であり、低湿地は草藻の堆積したケト土が層をなし、地下水が流動しやすい土層をなしているので、接木に最適な条件を作りだしている。気候は比較的温暖で寒地性植物、かんきつ類などの暖帯植物(冬期霜除けをするだけ)、更にソテツ、フェニックスなどの亜熱帯植物までほとんどの植物を露地で栽培することが出来る。

資料:安行慈林 松本家所有

④生産技術があった

産地形成の第4の要因は、植木の生産技術、とくに苗木の生産技術が普及していたことがあげられる。安行とその周辺は現在でも果樹苗木、枝物切花の生産が多いが、植木の苗木や養成木の生産技術がこれらと同じであることはいうまでもない。安行の枝物切花は江戸の初期より「赤山物」の名称で江戸の町に売りに出されていたといわれ、前記の吉田権之丞は「花屋」の屋号で植木より早く慶応年間(1653~5年)に切花を江戸に売りに行っていたという。当時の切花は、サカキ、ソナレ(ハイビャクシン)、イブキ、朝鮮マキ、ヤナギ、キャラ、アララギ(イチイ)などであった。このような枝物切花の技術的基礎の上に植木の生産が始められ、この植木が巣鴨や駒込などの庭師に販売され、そこからまた新しい生産技術の習得、あるいはツバキ、モミジなどの母樹を使用し、樹木の種類を広げていくといった経過をとっていた。

 加えて安行から江戸に向かっての荒川、隅田川、中川、江戸川沿いが全て沖積平野の米作地帯になっているのに対して、江戸から見て安行が洪積台地の先端になっているという事である。この洪積層は黄褐色のしゃく土(いわゆる関東ローム、赤土)で、腐植の含量がきわめて少なく肥料分に乏しい。

 安行の産地形成の要因は、以上のように理解できるが、明治初期数十戸であった生産者は、その後の東京に膨張と運輸通信業の発展に伴い増加していった。その間の資料は断片的であるが、例えば明治44年にできた安行苗木販売組合の組合員が180名であったことから当時の生産者はほぼそれと同数であったと思われる。そして大正大震災後における東京の緑の需要の増大を背景にいっそう発展し、昭和10年には周辺も含めて、生産戸数数千数百戸、生産額200万円に達するわが国最大の植木産地になった。

 戦前の安行の植木生産の発展は、自然的条件、生産技術、交通地位などの優位性を背景にしたことはいうまでもないが、それと同時に植木の流通面の広範な掌握に成功したことが発展の要因であった。まず第一に、安行の植木生産者は東京や横浜の植木需要に対し、そこでの庭師や造園業者と苗木や養成木をとおして密接に結びつき、閉鎖的な流通関係を維持したことである。第二に、そのような庭師や造園業者の需要開拓ばかりでなく、私的非作庭需要と輸出の開拓に力を注ぎ、流通をも掌握したからである。
国内の市場開拓は縁日売りや振り売りなどを通して盛んに行われたが、最も成功した方法は植木の通信販売(カタログ販売)である。この方法を通して植木商(生産を兼ねている)が明治中期移行形成されてくる。

 植木の通信販売は、当初共同的に行われ、安行の名が漸次知られるようになってから、格別的な活躍に分化していったようである。安行の植木の共同通信販売は、明治30年頃、植木専門業者によって作られた「安行苗木共同販売所」が初めてである。この販売が消滅した明治44年「安行苗木販売組合」が組合員180名で組織され、カタログ販売と同時に安行植木の宣伝を大々的に行った。この組合も解散し、その後、大正9年「埼玉植木商同業組合」が設立され戦後まで続いた。このように販売組合は設立と解散を繰り返したが、これは結局経済的基礎を確率した多数の植木商が独立したからあると思われる。

 戦前の植木商の数は判らないが、昭和33年当時は120名といわれている。これらの業者の供給圏は、関東を中心に全国的に広がっている。業者の増大と販路拡張は、従来植木生産でなかった地区内の農民をも植木生産者に組み入れていくことになった。
 そして、安行産の植木の輸出は、既に明治中期から始まっていた。最初は横浜のポーマ商会(ドイツ人経営)に依存していたが、その後安行の業者が中心となって横浜植木商を設立し、以後横浜植木会社と改組して安行産のモミジ、ツバキ、フジ、チャボヒバ、ソナレ、コウヤマキマキ、ゴヨウマツ、イチョウ、カイドウ、ヤツデ、コブシ、モクレン、など庭木類を主に輸出した。
また、東京興農園などを通しても輸出された。輸出先は、アメリカ、イギリス、カナダ、中国などであった。しかしこの輸出は病害虫検査法がアメリカにおいて大正元年に、イギリス、カナダにおいて大正10年に制定されたことにより行き詰まり、中国のみがその後も続いた。

 このように、安行は流通面の広範な掌握を通して関東の消費地に対する供給の大部分を占めることに成功し、これによって安行の特産地として発展が助長された。

資料:安行慈林 松本家所有

安行桜の事

安行出身の沖田雄司氏がこの桜を増殖し始めたのは、今から70年ほど前の昭和20年代初頭といわれている。
埼玉県立植物見本園(現:植物振興センター)創設者の田中一郎氏宅の裏に早咲きの綺麗な花びらが目に入り、穂木を貰い接木して育成。
当時はまだ名称が不確定であり、その都度「沖田桜」と呼ばれていたようだ。

当時の見本園職員の中村農学博士らが、「安行緋寒(ヒカン)桜」と名称し、桜図鑑に掲載したといわれている。通称「安行桜」と呼ばれ、今では、安行を代表する名物花として親しまれている。
また、「大寒(オオカン)桜」などの別名があるが、よく似た別のものと思われる。

安行桜はその美しさのほかに、他の桜と異なる性質がいくつか持ち合わせている。
この桜は切花としても売れるほど いくら切ってもよいという特徴を持っている。また「天狗巣病」(てぐすびょう)になりにくく、枯れ枝にならないこともあげられる。加えて、安行桜は桜の代名詞”ソメイヨシノ”より一週間ないし十日以上早く咲くだけでなく、花期が長いのが特徴でソメイヨシノが咲くころまで花持ちし、ピンク色を帯びた花色が一段とよく見えることがこの桜の魅力であろう。